浪人生日記0000

自分は甚だしい自己満足というものを持っている。自己満足はすなわち偽善につながる。しかし偽善の定義というものがよくわからない。他人のことを思って何かをするということは、他人の苦しんでいる姿を見たくないという自分の感情が根源にあり、突き詰めれば自分本意な行為である。自己満足というものはまるで悪いことのように言われるが、突き詰めていけば自分のためでない行動など存在しない。そして他人への思いと自己満足というのは時に共存する。自分の満足を相手の幸せと一致させることが偽善を免れる方法なのだろう。

他人に親切にされたとき、その人の中に自己満足を見出したとしても自分はそれに対して怒ることはできないし、その親切を甘んじて感謝して受け取るようにしたい。ただ自分が他人に親切にするときは、その人が求める幸せを正確に把握し、自分の思いと相手の幸せを極力重ね合わせることに気を付けるようにしたい。もしそれができたら相手が自分の行為に自己満足を見出すことなく、かつ自己満足の欲求を完璧に満たせるだろう。

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他人から独立した確固たる自己を持ちたいと思ってきたが、この「確固たる自己」が何なのかがよく分からなくなった。これを掴もうとすればするほど、結局他人の存在をより強く意識するようになり、自己がその手から滑り落ちていく。そして他人と関わりを持つときに限って、彼らを通してうまく振る舞えない自分という存在の輪郭が浮かび上がってくる。他人との関係性でしか自己は存在し得ないのだろうか。

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 自殺の否定はなかなか難しい。死ぬと周囲の人間の中には悲しむ者もいるだろうが、悲しむ者が皆いなくなった後なら、自殺してはいけない理由は特に見当たらないように思われる。実際高校1、2年頃は、何かの弾みで親や兄弟が死んだ後は、誰にも悟られずにひっそり自ら死のうと思っていたこともある。いつまで経っても友達を作らなかった(作れなかった)のは単に自分がひっこみ思案だったことも原因ではあるが、親しい人ができてもいつか失われてしまうという事実に囚われ、どっちみち無駄になることだと自分に言い聞かせていた部分も大きいのかもしれない。

 人間は他人の記憶に残りたがる。そしてその人が死ねば、多くの残された人間が悲しむことになる。本当に他人のことを思うなら、初めから周りの人間に悲しみを与えないようにずっと一人でいるべきであり、もっと言うならば、死んだ時に周りの人間に喜ばれるような悪役に徹して生きるべきである。それが真の善人というものではないだろうかという思いは捨て切れていない。

 だが死の悲しみとは単純ではない。悲しみはマイナスであると同時に非常に大切な感情であるような気もする。悲しみを覚える中で人間は他人に対して優しくなれるのであり、悲しみの中にはその人が存在したことに対する喜びもまた含まれている。周囲の人間の心に留まるということは、時に彼らを悲しませるが、同時に彼らに喜びや成長の機会を与えるものでもありうる。なので終わりを必ず迎える世界で他人と深く関わるということは、自分にとっても相手にとっても非常に大切なことかもしれないと、遅ればせながら考えるようになった。

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  大学受験が終わった。合格発表までの期間というのはなかなか気分が晴れない。 受かるにしろ落ちるにしろもっと早く結果が出ないものなのか・・・手応え的には若干しくじったので、現実的に考えて受かっている可能性は3割ぐらいだろう。どんな結果であれ受け入れる準備をしておく。
 それにしても地方大会での敗戦以降の堕落っぷりはどうしたものやら。そもそも自分はあの舞台にいる資格がなかった。十分努力して負けたならまだしも、出場を決めた段階からほとんど何も努力しなかった。暴風警報が出て練習が休みになった時も、家で素振りしたりできることがあったにもかかわらず怠け続けた。いったい自分は何をやっていたのだろう。あの1試合で自分に対する信用を失った。
 そもそも自分に何を期待していたというのだ。宿題を確信的にやらなかったのに忘れたとつまらない嘘をつき、主将として周りを引っ張ることもできず、不安定に揺れている自分を保とうと孤立することで余計に自分を失っているしょうもない自分に。それでも地方大会への出場権を勝ち取った時、少しは努力することができたと実感できたのに、せっかく芽生えかけた自信をわずか3週間ですべてぶち壊してしまった。怠けることで失うものの大きさに、なぜもっと早く気づくことができなかったのだろう。結局敗戦を女々しく引きずり勉強にもろくに身 が入らず、どこかで自分はダメな人間だと諦めている。
 現実逃避のように音楽を聴いてラジオをつけて、夜はアニメやドラマや小説をパソコンで見て寝不足になり、勉強に集中できなくなる。効率性や努力のかけらも存在しない。受験直前になってもそれは全く変わらなかった。
• 正直、東大にはそんなに魅力を感じない。本当にすごい人間は大学に関係なくすごいのであり、東大に行くのは多少なりともそれをよりどころにする必要のあるくだらない人間だと思っていたし、現に今でもやはり思っている。しかし自分はどうだろう。他人の反応ばかり伺って何でも周りの期待を勝手に想像してビクビクしながらここまできた腰抜けの根無草には、これほどぴったりな環境はないと思われる。

 自分の良いところも短所ほど多くはないだろうがある。まず他人には優しいところだ。これは自信を持って言える。伝え方がさっぱり下手だから相手に思い通りに伝えることはなかなかできないのが課題だが、根本的なところでは自分は優しいと思う。あとは真面目なところだ。これは長所というのか微妙で、たまにさっぱり融通が効かなくなったりつまらないことでクヨクヨすることもあるが、何かを成し遂げるには必須の要素だと思っている。どんなにクールでちゃらけているように見えても、いっぱしの人間はどこかで筋の通っているところがあり、この筋を生み出すものの一要素に真面目というものはあるように思う。

• 要は自分は欠点だらけでどうしようもない部分が多いけれども、そんなに捨てたものでもないということだ。今後どうなるかは全てこれからの自分自身にかかっている。